今日はこの1年間を振り返る最後の稽古をすると同時に、われわれの剣のあり方も、併せて振り返ってみたいと思います。
ヨーロッパのほうでは今、一口に「西尾式合気道」などと呼ばれたりしていますが、あくまでも西尾式合気道探求法であって、特別にそのような西尾式合気道というものがあるわけではありません。ただなぜ、そう呼ばれるかというと、これはやはり、一人一人合気道の捉え方があって、たまたま僕がああいう稽古のやり方をとっているからでしょう。
ただ、いろいろと将来の合気道を考えると…。僕もこの歳になって、外国での講習会もフランスは今年で最後にしてくださいということで、フランスの講習会から帰ってきました。その時、今後、10年、15年経つと合気道はどうなっているか、と彼らは言うのです。聞くとその根底には、その頃、合気道の稽古はどうなっているかという彼らの心配がある。それで彼らは「従来の稽古法による合気道ではなく、今、われわれは西尾合気道でやっている。でも先生は来ないという」と。だけれど僕も、もうがたがたやる歳でもないしね。十分に僕の稽古のやり方を積んだ若い人達がいる。ただし、その内容によってはいろいろと合気道を乱すような人では困る。ということで、立派な人材を派遣するので、こちらに必ず連絡してもらいたいと伝えた。
というのは、それを取る人によって、内容が大きく変わっていく。変わっていくどころか180度違ってしまう。われわれが武道とした合気道を求めていかず、われわれの稽古をしていながら、まだ五百年以上前の世界でさまよっている者もいる。その根底には武道ではなく、武術の世界がある。武術の世界とは、五百年くらい前の殺戮の方法を極めていく武士の世界です。現代社会では、そんなものはあってはならない。
それから百五十年くらい前までは武芸者の時代になります。かつての侍、五百年くらい前の人は、いかにして人を倒すかということに自分の生涯をかけてきた。人と闘い、人を倒すという時代がある。ところがその侍に、闘う必要がなくなってきた。それで生まれてきたのが武芸者です。だが何と言っても、侍の表芸は闘うことだ。そこで、それを細分化して系統立てながら、生業にする連中が出てきた。それがいわゆる武芸者です。ところが考えてみると、武芸者というのは、死の商人と言われる武器商人とそう変わらない内容なんですよ。争いのもとをつくるやりとりをしている。いいわけない。それから、この世にいなければならない存在ではない。
ところが今、かつて人殺しの手段であったもので、われわれは人間関係をつくり上げる。人というのは、殺し合いをしてはならないのだと心して、今やっていかなければならない。合気道では、それを深く心に刻んでいかなければならない。そして、われわれの稽古は、開祖の言葉を何とか形に表していかなければならない。というのが僕の考えで、それが僕の稽古になっているんですね。それから合気道の技というのは、ただ人を倒す手段なのではなく、それを通して人間的なものをつくり上げていくということも感じつつ、稽古をしてほしいと思います。
ですから今日は、体の転換からやりますが、われわれはもう三十年以上前から、一般でやられているのとは大きく変えています。これはあくまで大先生の言葉の表現を求めて、ああいう形にしています。今日は、そういうところを考えながら、やっていきたいと思います。
<片手取回転投>
武道において手を持ち合う稽古というのは、一般では考えられない。手を持たすというのは相手に触れることですから、かつての武術の世界では「倒す・倒される形」になってしまって、触れることはない。特に空手、ボクシングのような稽古形態では、手を持つようなことは考えられません。ところが、これが合気道ではできるんです。それを確認していく。
われわれは相手に対して、まず手を持たす。こういう所から稽古が始まるから、持たせた時に相手に殴られてしまうのではないかと思われたり、そこから始まるのはおかしいんじゃないかと言われる。そこから合気道の稽古は始まるので、何らかの方法で手を奪い返してやるというのが稽古の方法、というような考えになっています。従来の武道関連から考えると当然そういうことになる。
ところが合気道では、取りに行ったら奪い返してやる方法ではなくて、取りに来たら与えてあげる。どうぞ、と与え導くのが合気道。
ですから転換は、僕の場合はこういう形(横の回転)で転換をやる。一般ではこういう方法(縦回転の手のさばき)をとっている。これも大きな違いですが、考えてみたい。こういうふうに変えたのは三十数年前、大先生在世の頃からです。ところが、よくみると大先生は、すっと(手を横回転の方向に)やっていた。
この手の出し方(手の甲を相手に向けた縦回転)でやると、相手にやられてしまう(相手の手の届く所になる)。ところが、こう出すと(横回転)、相手には届かず、こちらは届く。これが入身であり、先ほど言った武道の表現なんです(写真)。
従来の武道というのは、対する相手を「許さん、斬ってしまえ」という展開で進む。ところが合気道は違う。まず、認め合い、許し合う。従来の武道とは正反対。その基本の原点にあるのが認め合うこと。相手に対して正対している。ですから、手を持たせた時に、爪先が相手の方に向いている。入身をした時には、相手の拳が届かなくなっている。そして転換をすると、相手と一体方向になる。そこにも、相手と一体方向にもっていくという表現がある。対立ではなくて、共存していくという合気道の目指す表現がある。僕はそう思う。
そして、それをもとにしてできているのが回転投です。転換した後、相手を殴って入る―これは成り立たないことなんですが、殴らないと自分がやられるからということで行われている。これでは合気道でなくなる。争いをなくすのが合気道です。殴って入ることを選んだ時点で、もう合気道でなくなる。これは僕の考え。
というところで、僕らの場合は、手を持たせた段階で合気道になる。共存の方向を探しながら。するとこれは、こちらの間合いになって入れ、回転投になる。われわれの回転投の内容というのはこういうところにある。(演武)。こういうことを確認しながら、やってみてください。
<剣の手引きで回転投>
一口に合気道は剣の理合いと言われる。そして、先ほど説明したその中に、僕は剣の要素を見出した。それは、剣のあり方も確認する場となっている。
また、ただ単に受けのほうも練習をしているだけでは、あまりにももったいない。むろん、その中にはもっと深い内容がある。合気道の受け身の中には、許容の場となる、相手に応じる受け身を確認できる。われわれの人生において、もっとも大事な内容となっている。ただ表面的に、一般の運動競技みたいに、競争するためのものではない、もっともっと深い内容がある。
合気道の特徴は、今言った捌きにある。その捌きの根幹は、合気道の場合、剣である。
武道における捌きというのは、いかにして相手の死角に入り、的確に相手を倒せるか、そういう動きのあり方を表している。ところが、われわれ合気道は和を求める。争うことは無駄だと理解してやっていく。今までの日本の剣の歴史は、血の歴史であった。剣は凶器であった。これをしっかり認識したうえで、われわれは二度とそういう使い道をしない。かつては凶器であったものを、利器に変えて、いわゆる反省の具として、二度とそういう使い方をしてはいけない。本来、剣というのは、人を殺戮する道具ではなくて、人の生きる道を切り開くものであった。それがいつの間にか、ああいうかたちになって、侍においては人を斬る道具になってしまった。本当は違うんです。人の生きる道を切り開く道具が剣なんです。ですから、それを何とか、本来の剣のあり方でやっていくことが合気道のあり方であり、大先生の言葉の表現へとなるんです。
ですから、僕らの剣は、今の回転投のあり方で見るように、刃を相手の方に向けるのではなく、人の進む道を切り開く(転換の時)、足元を切り払ってやる(くぐる時)のが、正しく剣の使い方です(写真)。ですから、徒手でやったものを、それをまた剣でやり、その心のあり方を確認してみる。これがわれわれの合気道の理念、大先生の言葉から習った剣のあり方です。そういう形で僕らはやっています。
<回転投 剣対剣>
まだ稽古の中では剣対剣まで行かないんですが、この回転投の中に、僕らの合気道のあり方が剣に表れている。「合気道は、触れ合う前に勝負はおしまいなんだ」という開祖の言葉があった。学生のわれわれは、その言葉がわからなかった。触れ合う前になんで勝負がおしまいなんだ。特に空手の世界でも、まず構えて、相手の攻撃をどう防ぐかをやっている。ところが、そんなものは必要ないのだという。また大先生は、変なこと言い出したなと、その頃はそう思っていた。
開祖のこの言葉は、今、われわれが転換の時に手を差し出す、その状態なんです。ですから、こういうもの(剣)を持った時にそれがわかる。相手が(剣対剣で)正面に振りかぶったところで、もうこの状態で入っている(写真)。本当は(相手の胴を)両断できるんだけれども、しない。これでおしまいなんです。
これを徒手では、(転換する)手を出した時の動きで、剣を持つと、剣を回転させて、相手を両断できる内容がある。剣を持っても、杖を持っても、それができるようになっている。構えも何にもない。これが合気道の持つ特性です。普通だと、剣を持てば構える。これがない。だから立った姿勢を見て、「おや、どの程度できるか」とわかる。 われわれはそういう視点からやる。
よく学生に話すんですが、「この構えのない立ち方そのものが、将来、あなた方が社会に出て大事なんだよ。一回、壁を作って相手に対すれば、向こうも、たいてい壁を作ってくるようになる。人は姿勢の中に何もないと、相手の心の奥底まで入れるんだよ。」これなんです。この中から、われわれは学ばなければならない。合気道の場合、稽古の中から、そういった剣の意味するものを身につけて、これを表現していかなければならない。僕はそう思う。
合気道の稽古はどれ一つ無駄になるものはない。どれ一つとして。これをもとにして一教とか二教とかもあるんですね。
今日はあまり難しい技はやらず、一教、二教、三教、それから四方投で、われわれの稽古のあり方を再確認する。
<逆半身片手取一教裏>
腕押さえとか、腕ひしぎの形じゃだめ。この(螺旋に回ってくる)運動の中に、相手と一体になるようにする。相手と一体方向となる流れの中で、同一方向に回って来る。
<剣の手引きで片手取一教裏>
剣を持って、その流れを確認してみる。これにもある一つの願いが入っている。
剣というのは、昔から日本の強者の象徴であった。そして、この剣は、だれでも使うことができる。ただし、これを持つと、振るいたがる。そうすると、周囲はたまったものではない。そして、刀も「けん」ならば、拳も「けん」。権力も「けん」。現在、最も影響のあるのは権力の「けん」。これなんです。この「けん」も同じです。人格の伴わない権力には、正しくそれを行使することができない。ですから僕らはこういうもの(木剣)を持って技の流れなどを確認しながら、これを通してその意味をとらえていく。「けん」というのは、誰でも持ちたがり、だれでも持つと振るいたがるが、己の人格に合わない振り方をしてはならない。大先生が言ったとおり、愛の心を持って、ものごとをやらなくてはならない。
昔の武道の世界は、人の心に訴えるのではなく、物に訴えていた。それが大先生の教えとの大きな違い。それを確認するためにこれ(剣)をやる。人格に合わない剣(けん)を振るうべきではない。それが大きな流れの中に入りながら、自分の人格からはみ出さない剣のあり方を求める。そして、剣を使う場合には、己のためではなくて、人のためという心を持ってする。ですから我々の剣は、薄皮一枚、衣は切っても、肌は一切傷つけてはならない。その間においてお互いの反省の場とする。こういうふうに、われわれはやっていかなければならない。
剣対剣、剣対杖をやる前に、剣の理をもって、動きの再確認をしていく。それを併せてやっていく。
剣を持っても、一つの流れのまま、やっていく。
<杖の手引きで片手取一教裏>
杖でも、同じように。むろん、剣と杖とでは使い方が違います。剣は相手を拳でとらえるが、杖は先端でとらえる。その使い方の差違はあっても、本来の動きはそう変わらない。合気道の特性で、徒手はそのまま剣になり、杖になる。大先生が言われた言葉の通り、剣を持てば剣、杖を持てば杖。あらゆる武道の再現ができるのが合気道。
ところが、今までそういうことが言われながら、ほとんどそういう稽古がやられていなかった。これはヨーロッパでも、特に僕の稽古をしている人達は言う。剣と杖を持って、われわれは合気道の稽古をしたい。
ところが残念ながら、ほとんど使えていない状況でした。これが十年ほど前から、やっと使えるようになった。僕の仲間の岩間の斉藤氏は、かつて大先生が研究されていた剣と杖の形を整理して、それをもって、ああいう形の稽古をしている。彼がああいう形で稽古をやって、やっと剣と杖が使えるようになった。これが実状なんです。
だが、何かやっぱり違う。毎日自分がやっている稽古と少し違う。まあ、それは当たり前のことなんです。今の合気道を作るために、基礎的に大先生がやっていたかつての武道形態なんです。そこにもってきて、われわれの場合は、大先生の言った通り、徒手でやっている稽古をそのまま剣を持ったら剣、杖を持ったら杖で表現できる。大先生がそうちゃんと言っている通り、やっぱり表現できた。これがやっとできるようになった。
剣対剣、剣対杖に行く前に、今度は杖を持ってやってみます。さっき言った心の問題と併せて、確認しながらやってみましょう。
<逆半身片手取二教の裏・剣対剣>
二教の裏も、一教の裏と同じようにやれば、こうなってくるんですが、これじゃいけない…。
今日はちょっと、こういう形の二教をしてみます。
われわれの場合は、だいたい技のつくり、崩し、これは投げの場合も押さえの場合も必要なんです。しかし、一般に合気道の稽古の場合、これが非常に欠けている場合が多い。今の場合、合気道のつくり・崩しは当て身の呼吸でやっている。外国に行くと、よく質問を受ける。当て身というけれども、ほとんど説明してくれない。全部当て身なんだよ、といってもやはりわからない。
ところが、これが当ての形(前足を後足に引き付ける入身とともに、手刀を前に出して持たせる=写真)になる。相手の攻撃を防いでしまう。これが当ての呼吸なんです。ただ、正面にそれをやると空手のようになってしまうので、合気道らしくこのような動き(演武。前に出して持たせた手刀を、螺旋を描いて導いていく。足は相手の裏に入る)。われわれは片手を出すのを、これを突きとみなして、ここで既に腕を伸ばせば(拳が相手の顔に)入っている。しかし、合気道には受け払いがないんです。触れ合った時には、相手は既にもう完全にとらえ切っているという内容なんです。この位置から相手を完全にとらえている。相手からは届かない。今の動きはそれなんです。この位置(手を持たせたところ)から、もう完全に相手の顔に入っている。合気道ではいつでもこのように入れるようになっている。顎に入る。でも、これをしてしまっては練習にならないから、合気道ではこのように押さえの形に入る。
<逆半身二教裏 剣対剣>
大先生の言ったとおり、合気の場合はそのまんま、剣を持てば剣、杖を持てば杖、あらゆる対応ができる。全くその通りなんです。
僕なんかはもともとは柔道、空手の出ですから、全然、剣には縁がなかった。だから、合気道は剣の理合いというがさっぱりわからなかった。先輩に聞いても要領が得ない。ああ、これは自分でやらざるを得ないなと思った。そして、われわれのグループは皆やった。皆何かやってましたからね、柔道やったり、空手をやったり。これはやはりそういうことを求めている。おもしろいもんでね、初めは技のあり方を求めるために始めた、そうした場違いだった人が逆に今、居合いの宗家になったり、杖道の大家になったりしてますからね。
合気道はそのまま剣杖になるというあの当時の大先生の言われたことは、その言葉だけで終わってしまっていたが、やはりできるようになっているんですよ。今のこれもやろうとすると、突きなんですよ。ですから突きでやった場合にこうなる。
合気道の場合、構えも何もありません。
こういうもの(剣)を持ってみるとわかる。
合気道では、二教を取った時に手首を決める。すると空手にしろ、一般の武道にせよ、よその武道から見ると、合気道というのはずいぶん手間暇かかることやっているんだな、あんなのでは武道の世界では通用しない、ということになる。ところが違う。一般の武道の人が見る次元と、われわれ合気道の者が見る次元が違う。ぶつかり合ってやらなければ勝負にならない、ああいう次元ではない。ぶち当たる一瞬、一瞬前に勝負はいつも勝っている。次元が違い過ぎる。それを知らない。一般の武道の世界で「触れ合う前に勝負がある」なんて、何言っているんだということになる。僕も初めはそう思っていた。でも、こういうもの(剣)を持ってみるとよくわかる。触れ合う一瞬前、一瞬前にいつでも勝っている。
そして、二教というのもまた同じ。一回、二回、三回、四回、五回と、いつでも倒せるようにしながら持っていく。というのは、一つに合気道は許す武道だからである。今までの日本の武道は「許せん」というものだった。ところがわれわれは許す武道をしている。人が人を許せるというのは、最高のことじゃないですか。一回より二回、二回より三回、四回と、数多く人を許す。そして正しい方向へと、相手を導かなければならない。これが合気道のあり方です。それがこういうもの(剣)を持ってみるとわかる。一瞬、一瞬の中に、いつでも勝っている。それを、そういう心を持ってやっていく。それをお互いの反省の場として、二人がつくる方向へと導く。これが合気道の行き方なんです。合気道は反省と創造の武道たるゆえんです。われわれの今のこの剣でも、何回も待つ。ですから、この一瞬、一瞬の合間に、一回、二回、三、四、五、とこうなっている。(写真)。