70歳を迎えた心境

合気ニュースインタビュー(聞き手 夏海三四郎)(平成9年12月23日会見)

――西尾先生が、12月で70歳になられたということで、どうもおめでとうございます。2月にはお祝いのパーティーも予定されている(平成10年2月14日 スクワール麹町にて開催)ようですが、現在の心境をお聞かせいただきたいと思います。

 まあ、よくここまでやってきた?というのが実感でしょうか。

――先生は柔道や空手を経験されて合気道に入門されたんですが、合気道では最初から指導者になろうというお気持ちだったのでしょうか。

 いや、指導者になろうとしてなったのではありません。本当に武道が好きで始めただけなんです。知らないうちにそういう立場になってしまいました(笑)。正直に申し上げると、本当は合気道の中身を一人でコツコツと追求していきたかったというのが本音です。とは言っても、柔道でも空手でも、ましてや合気道の場合でも非常に人に恵まれました。私は役所勤めで、そこでも仲間や先輩に恵まれましたが、さらに多くの人達と親交を持てたのは幸せだったと思います。

――少し先生が入門された当時や初期の頃を振り返っていただけますか。

 あの頃はほとんど開祖が岩間から出て来られない。本部での稽古も多くて5、6人、下手をすると私ひとりという事もありました。これには本部の弟子連中も危機感を抱きました。「このままでは養神館が合気道の主流になってしまう」とね。そうした状況の中で、「これでは合気はだめになる」と塩田剛三氏(養神館初代館長)が立ったわけです。

――それだけ塩田先生に勢いがあったわけですね。

 そういうことですね。当時の本部には明確な審査基準もないという有り様でした。ですから、このままでは本部が単なる一植芝道場になってしまうというような危機感を皆持ったわけです。私としては、自分ができることをやるしかありませんから、そこでまずは、最初の支部組織である「城北支部」というのを作りました。

――本部自体もまだそう組織化されてない時期ですよね。大変だったのではないですか。

 私は柔道出身でもありますからね。組織形態は講道館をモデルにしました。当時はまだ東京は焼け跡だらけで、1区で1支部は到底望めなかったですから、練馬・豊島・北・板橋の四区合同で「城北支部」としたわけです。で、運営は私と山口清吾氏(故人)が受け持つと。

――先生は城北支部での活動を通してどういうことを目指しましたか。

 まずは、技術の平均化・統一化です。それには昇級・昇段の審査会をやることが一番の早道です。お互いの交流も図れますしね。

――本部の認可が要りそうですね。

 ええ、そうなんです。で、本部に話を持っていったんですが、なかなか許可がおりない(笑)。結局、3、4か月かかりましたかね。やっと一級までならと許可をもらいました。それからさらに1年後に初段まで、3年目に弐段までのOKが出ました。

 城北支部は、出発当時は4区で5道場――練馬が鍬守道場、豊島が平和相互(これがその後小林道場になる)、板橋が税務署、北が印刷局で滝野川と王子の2か所で、滝野川には大人と子ども合わせて100人、王子が50人はいましたね。

 こうした地道な活動を行ないながら、このくらいの期間で、この内容でと審査の中身を決めていったわけです。

――でも、よく許可されましたね。

 開祖は組織の運営には無頓着な人でしたし、現道主(故植芝吉祥丸二代目道主)が全国全てを見るというのも物理的に無理ですからね。許可せざるを得なかったんでしょう。そのうち、本部もいつまでも昇級・昇段の基準をおろそかにしておけませんから、やむを得ず城北支部で作った基準を用いるようになったんです。2、3度手を加えて直してはありますけどね。

 城北支部も、発足から5、6年経った昭和32年ごろには10道場に増えていました。演武会もよくやりましたしね。

 私はこういうきちんとした支部が全国に、出来れば1県1支部という形でできて、本部と密接につながりを持ちながら本部の代行をする。さらにそこから枝分かれして市町村支部がつながっている――こういう形が望ましいと思うんです。ところが、現状はめちゃくちゃですね。届けを出したらやたらと認可してしまうものだから、道場の数だけ増えても東京にしろ埼玉にしろ連盟に入っているのがどれだけいますか。半分かそこいらじゃないでしょうか。嘆かわしい状況ですね。

「皆、もう1度1つにまとまったら」と提案したことも

――独立されて別の組織を作った先生方も何人かおられますが、何とか1つになってという動きはないんでしょうか。

 大先生が亡くなった時に、実はぼくが高段者会で「皆、まとまったら――」と提案したんですよ。そしたら「何を言っとるか!」と藤平(光一・現、氣の研究会宗主)さんに一蹴されました(笑)。塩田さんにしても、開祖は出て来ない、本部もしっかりしていない、このままでは合気道は滅びてしまう――という思いからの行動だったとぼくは思うんです。確かに、組織は割ったけれども、合気道の世界に対する彼の貢献は大きいと評価しているんです。彼がいなかったら今の合気会だってこれほどにはなってなかったかも知れないと思います。

 その塩田さんがあれだけの組織を潰して、また一緒にやれるかというともう無理だったでしょう。それでも受け入れるというだけの度量というか懐の深さが合気会の方にあればまた違ったかも知れないですけどね。

 開祖は、何度も言いますが組織の運営とかに興味がないというか、そんなことを超越した人でしたから、塩田さんが分かれてからも何かあれば本部に顔を出して、開祖も「よう来た」という雰囲気で接していたものです。だから、出た事に対して決して怒ってはいなかったと思います。富木(謙治)氏の場合は、試合形式の合気道を目指して、それを「新合気道」と名乗るようになったんで、それなら出てくれということでしたね。

 ぼく自身は、試合もいいじゃないかと。特に中・高生あたりまではやらせてもいいのじゃないかと思いました。というのは、どの先生だって自分が習った時期の技を守り続けているでしょう。富木さんは講道館の嘉納さんの弟子ですからね。武道に入った時の師の影響は大きいです。だからその影響もあって「離隔の柔道」として合気道をとらえて競技化を図ったと。教育者でしたし、学校体育へのこだわりも強かったですからね。

 ぼくからすると、技だけにこだわったらだめなんです。稽古法として学ぶべき所はたくさんあるんですよ。それには試合も少しくらいは結構だと。でも、それが合気道のすべてではないですから、大学生くらいになれば本当の意味での武道は、試合などとは別な所にその本質があるんだと気づかせてやればいいんです。実は一度そういうことを提案したことがあるんですが、やっぱり藤平氏に一喝されましたよ(笑)。まあ、試合形式自体もそう大きな広がりを持てなかったようですがね。

――西尾先生ご自身は、独立を考えたことはなかったんですか。

 いやあ、皆からよく言われましたね(笑)。大体が「西尾の合気は合気じゃない。あいつがやってるのは空手か柔道だ。あいつは気の出し方も知らないんだ」などとよく言われましたからね(笑)。あんなことまで言われて本部に留まってることないでしょうというわけです。

 でも、そのうちそういう人が本部からいなくなって静かになったかなと思ったら、今度は外国へ指導に行くと、行く先々でやっぱり「西尾の合気は合気じゃない」と言ってるのがいる。困ったもんです。

 だから、ぼくは新しく稽古する時はまず「ぼくのやり方が間違ってると思ったら、今回の稽古だけで終わりにして下さい。ぼくはぼくのこういう考え方の下でやっていますから」と必ず断ることにしているんです。「善し悪しはあなた方自身で判断してくれ」と。

 ぼくとしてはね、今の道主(二代目 吉祥丸道主)に「お前のは合気じゃない」と言われたら仕方ないですが、そうでない限りは合気会で続けていこうと考えているんです。

 ただ、今の本部には大先生はもちろん、大澤さんも白田さんも山口さんもいません。皆亡くなりました。あと岩間の斉藤(守弘)氏だけですね、中身のある合気道ができる人で残っているのは。それが情けないですね。

技の形追い求め、本質見失った

――なぜ、形骸化してしまったんですか。

 皆、大先生の言うことを聞こうとしなかった――。技の形だけ覚えようとしたんですね。「わしの枝を真似してどうすんじゃ。技は一度出したら終いしゃ」と大先生は言ってたにも関わらずです。大先生は神様みたいなことを言うからわからんと、きちんと聞こうとしなかったんですよ。それがだいぶ後になってから、思いがけない時に「ああ、あれはこういうことだったのか」と思う時が出てくるんです。それが今の人はほとんどが上っ面の稽古ですね。よその武道を見ようともしませんしね。そもそも武道の価値というものは、他武道との比較において決定されるものなんです。

  大体が合気同士で呼吸法が決まっても仕方がないでしょう。それでは道場の中だけでしか通用しません。それなのに、「合気道やってまだ空手や剣をやってる。空手やりたきゃ空手に行けばいい。剣をやりたきゃ剣道に行けばいいんだ。合気道やって他のあんなものやる必要がないんだ」と言うでしょう。他の武道にしたって、皆努力精進してますよ。我々はそれを見て、それらの上を行く合気にしていく努力をすべきなんです。合気道はそういう使命をもった武道なんです。残念ながら、そういうものを目指した特徴ある先輩方がだんだんと亡くなって、ますます形骸化が進むばかりです。

 もし今、ぼくが言ってるような形で再建を目指すなら、若手の指導者の再教育が必要です。これは一朝一夕でできるものではないです。この道30年、40年要してやっとというのが本来ですから、将来を考えるとこの先がますます心配になってきます。

――かなり悲観的ですね。

 もうぼくもこの歳ですから組織的なことまで心配しても仕様がないでしょう(笑)。それよりも、本来、武道とは自分自身で求めて道を切り開くものですから、そこに戻るしかないと思うのです。ぼくの生き方に共鳴する仲間が1人でも2人でもいれば、その人達と一緒にやっていきたいというのが今の正直な心境です。

新たな糸口残して、若い人達に将来託したい

――今年もずいぶんと海外に指導に行かれたようですが、来年もまたあちこち行かれるんでしょうか。

 今の段階で6回は海外に指導に出掛ける予定です。外国の人達は熱心ですからね。

――本当にそう感じますが、どうしてなんでしょうか。

 打ち込み方が違うというか、取り組む姿勢が日本人とは大きく違いますね。生活変えてまで打ち込んでますから。講習会にしても、日本だったら3日は長い。せいぜい1、2日です。向こうは4、5日では短すぎる。1週間やらなきゃ満足しないです。それも泊まり込みでやってくるんですから。日本人はとかく楽な方に流れてしまう傾向が強いような気がしますね。

――これからどういうふうに指導されていくのかお聞かせください。

 大先生は「じいはただこの道の糸口を付けただけじゃ。後は皆が自分の中にあるそれをどう見つけ出して伸ばしていくかじゃ」と言われていました。まったくその通りで、稽古は自分で探っていくものだと思います。例えば四方投げ1つにしても、我々は35、6年前にすでに改良しましたし、ぼくはぼくなりに大先生が付けてくれた糸口を頼りに、そこから先へ先へと追求してきたつもりです。で、今度はぼくなりの糸口を弟子達に残してやって、合気道の将来を彼らに託したい……そう考えています。

――大先生は86歳まで生きられたんですから、西尾先生もまだまだお元気で活躍してください。今後ともよろしくお願い致します。