そこで、技の錬磨とその内容について考えてみましょう。我々が稽古を行う際には、従来の武道の求め方と全く同じ求め方ではたして良いのであろうか、という疑念が起きてきます。私自身は同じであってはいけないと考えています。過去の日本武道の方向を180度方向転換したところに、合気道誕生の意義と存在価値があるというのは自明のことです。そして、稽古の姿勢、つまりその求め方が自ら技に表現されてくるということも今更説明する必要がないでしょう。それであるなら、合気道を過去の武道と比較した場合、必然的に技の表現の仕方が変化していなければなりません(私はここで「変化」という言葉を用いましたが、これは「発展」と道義です)。具体的に言えば「奪う武道」から「与える武道」へ、ぶつかりあいの愚かさから触れ合いの貴さへと、全くその求める方向が変わってきているということです。
さて、それでは現在の合気道における技を考えてみることにします。日頃稽古に使われている技は、ゆうに1000を超すといわれています。ここで問題となるのは、この技の意義を正しく解して合気道人が錬磨に励んでいるかということです。意義も解さず、上面だけの技をいくら数多く覚えても、全く何の役にも立たないでしょう。
武道において、初歩の段階から問題にされ、最終段階において最も重要視される間合等を、いったいどのように捉えて理解してやっているのでしょう。現在まで私の見る限りでは、大部分の人がこのような初歩的なそして素朴な疑問さえも解決しないで、ただ道場に通い動いている(あえて稽古とは言いません)というのが実態のようです。武道の稽古は、なんでも昔はこうやっていたからと古いことを真似してやればよいというものではないと思われます。と言っても、古いことは何も必要ではないのだというわけではありません。古いこともやはり大切なのです。「何故古いことを知らなければならないか」という問題意識が、私達の本当の稽古の出発点となるからです。私の考えでは、新しいことを正しく知るために古いことを知る必要があるということになります。ですから、ある意味においては古いこと(合気の場合なら古い技)も必要です。私が主張しているのは武道の稽古においては古さばかりをいつまでも追い求めていたら、その武道はダメになってしまうということなのです。そこに残されたものは、時代に生きることのできない形骸化した武道の辿る古武道への道でしかありません。武道における技は、古くなったら使い物にならないばかりでなく、時に他を害し、自己の身を滅ぼす元にもなります。その意味では、武道においては技は常に新しくなくてはなりません。
次に、他の武道とは異なる稽古法を採る合気の技について考えてみます。合気道の技は1000を超すといわれていますが、実はそれは一気だと断言します。入身一足あるのみです。数多く技があるというのは、入り身そのものがその時々の対応において千変万化の技を現出させるからであり、ここに武産合気道の意義の表現もあるのです。
古来より、武道の精神技術の段階を知るために試合が用いられ、現在もあらゆる武道・スポーツにおいてその方法が採られています。ただひとつ合気道のみはそれを必要とはしません。何故でしょうか。この問題に関しては私自身、今まで先輩の方々の誰からも納得の得られる回答をいただくことができませんでした。古い方はご承知のように、開祖植芝先生の言われる言葉はその半分を理解することが大変なことであって、3分の1を知ることができれば上の部というのが、先輩の方々の語られるところでした。私など何年か経ってあの時言われたのはこのことかとやっと気が付く状態でした。
植芝先生が逝去されてから10年余り、私はかつて先生の言われた言葉を道標として、現在の私なりに合気道を解釈しております。話を元に戻して、技のあり方について申し上げましょう。
まず、何故合気道に試合を必要としないのでしょうか。これは前述しました通り合気道の誕生の意義にあるように、奪う(倒す、殺す、つまり相手の生を損なう)武道から、与える(相手に進むべき道を示唆する)武道へと、従来の武道とは全く異なった方向に来ているからです。
ここで他武道との比較も若干してみる必要があるでしょう。各武道とも懸命の精進を続けています。ですが、皆あのような型、方法でしか自己の鍛練の過程、度合を確認するすべがないのです。それだけにその技の修練がすべてというようになります。その技がその道であり、そのこと1つしか表現できないのです。例えば、剣なら剣のみ、投げ押えなら投げ押えのみといった具合です。ところが、真の武道の試合とはあのようなものではなく、死に合いをすることであり、試し合いなどではないのです。ですから、合気道以外の各武道が採用している試合というものは、さほど積極的な武道的意味があるわけでもなく、1つのことしかできないその稽古方法についても同様な解釈を下すことができます。
ですから決して試合ではなく、死合をしろというつもりではありません。そのようなことは現代社会にあって許されるものではありません。ですから真の武道の厳しさを知ろうとする者は、常にその場に留めて事物(武道の場合は対峙している相手)を見、己に厳しく対していくのです。
武道の場合「己に厳しく対する」というのは、勝負の際に自己と対峙している相手をいつでも倒せるのだが、相手を大きく生かすために倒さないでおく、つまり倒そうとする気持ちを律することです。更にはそれを可能にするだけの実力を養うため、厳しい精進を欠かさない或いは長い間その気持ちを持続させるということなのです。
合気道における技は、気の発露であり、反省の具であるといわれます。「気」とは簡単に言うと生命の根源であり、総ての物の生命の発生を意味します。その気により発生した技で、他を害するがごとき行為は許されません。合気の技は入身一足の理により瞬時に相手を倒すことができます。ですが相手を倒すというのは愚かさと生命の尊さを知る者が行うべきことではありません。
合気の技というものは、対峙した相手に反省の場を与える方法として存するものなのです。それも1つの技の中に1度、2度、3度と相手を倒せる瞬間があります。それがまた己自身のあり方の反省の場ともなるのです。
1つの合気の技を行う過程には、どのような簡単な技の中にもあらゆる武道の真髄が内蔵されています。これは合気道以外の一切の武道に無いものです。
本来ならば、触れ合い一瞬にして相手を制する合気道の技を修する場に、打ち合い、たたき合い、ぶつかり合いがあるのは矛盾しているのですが、依然として打ち合い、たたき合いをしている者が大部分であるというのは、一体どうしたことでしょう。
我々は稽古の初めに手を持って始めます。現代の武道的感覚、現代格闘様式においては、このような手を持つという間合いは、時間的にも空間的にも考えられないことなのです。この点を稽古に励む人達はどのように解釈しているのでしょうか。おそらく何も分からずにただ稽古しているだけなのではないでしょうか。というより、分からないからやるんだというような感覚で稽古が進められているのかもしれません。
私は手を持つという合気の稽古法は、手引きという合気の心を表すのだと思っています。与え導くという合気の理念を実行している方法なのです。そして、それは武道的体現という面でも、武道に励む人達を充分に納得させ得るものです。
このことを私の所にいる皆さんには、ある程度理解していただいていると思っていますが、ぶつかり合いの稽古法しか知らない人達にはとても無理なことでしょう。
手を持って稽古することは、この心を知り、また武道における触れ合いと一瞬の呼吸の大事を知る者にとっては、むしろ大切な稽古法だと考えます。ぶつけ合いの稽古は憎しみを生み、破壊を招きますが、触れ合いを知る稽古は互いの愛を育て、1つの物を生むことができます。日常人と人との触れ合いでは、男女の触れ合いは恋愛を、男と男の触れ合いは友情を、夫婦の触れ合いは新しい生命を生むことができます。
合気道の道場では、どこの道場にも木刀が用意されていますが、どのくらい正しく使われているでしょうか。
正しい剣の振り方ができるなら、剣をはなれて現代格闘技の突き、蹴りにも全く同じ理合で充分に活用できるのです。合気道の技は剣の理を体技で表現すると言われているように、全く剣そのものなのです。外国における剣は、相手を倒すことのみに造られた凶器以外の何物でもありませんが、日本の剣は違います。持ち人の体であり、心なのです。他を害さず、己も傷つかず鞘の中にあるを最上としますが、一旦抜かれるや触れ合いにおいて総てを制することができるように造られているのが日本の剣だと言えます。ですから、それを持つ人、その理合を学ぶ人、は正しい剣の振りかぶり方、斬り方等の剣の扱いを知る必要があります。
この剣の理合に合気の心をこめて、体で表現する合気道の技は、相手を屈服せしめるためのものではなく、互いに理解し合うためのものです。いわば人の言葉と全く同じものなのです。その意味で、合気道における道場の稽古は、語り合いの場と言い得るでしょう。合気道の技はこのように他の武道における技とは全く違います。ですから合気道における正しい稽古、正しい技とは、互いの正しさを求める心を表しているかどうかにかかっています。
正しさとは相互の調和を求め、はかることです。
以上により、私は合気道の正しい技の錬磨、修得ということは、技を言葉として表現できるようになり、技をもっていかなる人にも語りかけることができるようになることだと考えます。私は、合気道を修業する人々が1日も早く1人でも多く心と心を、合気道の言葉“技”で語り合えることができるようにと願っています。