西尾師範インタビュー

(Interviewed by warabi-aikidokai, 1999.2.9)

◆空手との掛け持ちから始めた合気道

★先生は、どのような経緯で合気道を始められたのすか。  それは昭和27年のことですが、空手の道場からこういう所があると紹介されて、空手仲間と二人で本部道場に行ったわけですね。

 ところが半日探しても、場所がわからない。あのころ、本部道場のある抜け弁天の辺りは屋敷町でね、交番に行って尋ねても、こんな所に道場なんかないと言われまして。この辺に間違いだろうと探しているうちに、真っ暗になってきちゃったの。そうしたら植え込みの間から合天井の建物が見えたわけ。普通の家の天井と違って、神社みたいに四角い天井ね。そばに行ってみると、石の門がある。あ、これだよ、と思って行ってみたけど、看板の字がもう読めなくなっているんだよ。これ、字は読めないけど、道場の看板だ。というわけで入ったら、やっぱりそうなんだ。道場は裸電球でね、畳は半分しかないんですよ。ぼろぼろの畳でね、板がむき出しになっていてね。

 この時、二代目道主は若先生と呼ばれていて、まだ証券会社に勤めていました。そういう状態だったんだけど、お願いします、と入って行ったらね、吉祥丸先生の奥さんが出ていらしてね、

「もう少しお待ちになってください。まだ、だれもいませんから」って言うんだ。そして、待っていたの。だって、2、3人しか来てないんだから。そうするうちに若先生が顔を出したわけ。

「お待ちください。今、着替えますから」

「いや、まだ、僕ら入門するかどうかわかりませんから、けっこうです」

 そういう感じだったの。そこへ、山口清吾さん(本部師範、1996年歿)とか、多田宏さん(本部師範)とか来たんだよね。まあ、僕はすぐ入門したんですが、一緒に来た空手の仲間は、もう少し空手をやるよと言って入門しなかった。僕は空手の前に柔道もやっていたんだけれど、もう柔道を完全にやめて、空手と合気道をやるようになった。

★そうしますと、西尾先生が初めに見られたのは、吉祥丸先生の稽古だったわけですね。

  そうなんです。それを見学して、次の日、もう一回、一人で見に行ったら、藤平(光一、『氣の研究会』宗主)さんがいたんだ。それで、やってみようかなあという気持ちになってきて、それで入門したんですよ。

★当初、合気道の稽古はどのくらいなさっていたのですか。

  空手のほうは、早めに行くと、早めにできたんです。合気道の稽古は7時からでしたから、役所が4時半に終わると、まず浜松町の空手の道場に行った。どこの道場でも時間通りに終わることなんてなかったから、合気道も終わってから1時間くらいやっている連中がいる。それに間に合うように、滑り込みやってたんです。

★道場のハシゴをされていたのですね。

  ええ。そうだったんです(笑)。柔道と空手をやっている時もそうだったけど、1日、5時間くらいの稽古は普通だったんですよ。そうすると帰りはくたびれてるから、畑の中に大の字になって寝たくなっちゃうんだよ。そういう思い出がありますよ。

★本部道場に入門された頃、どんな方が印象的でしたか。

  僕なんか惹かれたのは、山口さんですよ。あの人にね。僕にとっては兄貴分でね。山口さんは高校の教員だったんですよ。それを投げ出して来て修行してるわけですから。まあ、言ってみると、合気道のプロ第一号ですよね。僕は公務員で稽古をやっていて、まあ、自分の好きな稽古だけやってりゃいいが、それじゃあ、僕も何か手伝わなきゃ悪いなと思ってね。

 ちょうどその頃、養神館が始まったんで、若先生がみんなに口説かれて職を投げ出してしまったわけでしょ。課長やってたのが辞めて、合気道専門になったわけで、やっぱりこれ、少しでも何かやらなきゃな、ということで、僕の勤め先の印刷局に合気道部をつくったんです。

 印刷局の合気道部というのは、合気会の中で、社会人、学生を通して一番古い合気道部なんです。創立が昭和29年の11月。1週間遅れて東大赤門クラブができた。これが、学生連合の元だよね。

◆最初は「柔道部」だった印刷局合気道部

★そのころはまだ、一般に合気道を知る人は少なかったと思いますが、どのように稽古生を募ったわけですか。

  印刷局には北区に滝野川工場と王子工場があって、当時滝野川工場には2千7、8百人、王子工場が千人くらいの人がいました。やはり北区にとっては大きな企業ですし、おまけに官庁ですから。だから北区の柔道連盟からね、どうしても柔道部をつくってくれという要請が僕に来ていた。それで柔道部をつくろうというんで、人が集まって来たんですよ。もちろん、皆、合気道なんてまだ知らない時代だったけど、もう人が集まってきて、僕はいつの間にか幹事になっているわけよ。

 それでまあ、ともかく集まった若いのを、「もう、柔道の時代じゃないよ」と。だって、若いったって役所の職員だから、平均して三十、四十歳になっているわけですから。もう柔道をやる歳じゃないと。これからは、こういうものがあるんだって、それをそっくり合気道に切り替えちゃったわけ(笑)。

 だって集まった連中も、ぱぱっと二教か三教をやってると、「うわっ、これは効く!」というわけで、こっちのがいいなんて簡単にね。ほら、難しい説明はいらないのよ。効くからね(笑)。こっちでいいってことになっちゃった。

 発足当時、青年部が85、6人で、少年部も約80名いました。ここには、開祖も若先生もよく来てくれました。坂本友次さん(現・北区合気道連盟理事長)なんか、稽古の後、大先生の背中流しに風呂に一緒に行ってね。

◆高島屋の屋上で行われた公開演武会

 このあいだの新聞(合気道新聞、平成11年1月20日発行)に、吉祥丸道主が行ったいろいろな行事が出ていましたね(道主年譜)。第一回の全日本演武会は山野ホール(昭和35年)と書いてあったが、本当はあの前に、画期的なことがあったんですよ。それはね、昭和30年に、各国の大使・公使を招いて、日本橋の高島屋の屋上で5日間通して演武会をやったことなんです。 これが公の場での最初の演武会ですよ。だから、このような演武を大先生が許すかどうか、たいへんだった。

 その時、大先生は、「人前で武道は見せるもんじゃない」という感じだったから、それを若先生が口説くのはたいへんだったのよ。許してくれるか、許してくれないか。おまけに出演してくれなんて、どう切り出すか。と言ってもわれわれだけでは格好つかないから、何とか出てもらいたい。これがあったから、若先生はたいへんな苦労をしたと思うよ。だからもう、大澤喜三郎さん(本部師範、道主補佐。1991年歿)やら皆で、友末洋治さん(『財団法人・皇武会』財団法人認可時の担当官、内閣書記官長=現在の官房長官、後、茨城県知事)を担ぎ出したりして口説いた。ともかく大先生は勝手にしろ、なんて調子で言ってくれたんで、進めていくことができた。でも、怒って勝手にしろと言っても、やっぱり若い連中がやっているのを見ていられなくて、それで出てくれたんだと思うよ。これで演武会の形態ができたわけだ。それがあったから、第一回の全日本が打ち出せたと思うんですね。

 この時は、大阪のほうからも、九州のほうからも、みんな地方にいた古い弟子達が駆けつけて来て手伝ってくれてね。僕らも印刷局の合気道部からバスを1台出して、公用外出で男女合わせて40名くらい、毎日、演武に参加しました。

◆吉祥丸道主との酒の思い出

★合気会の発展とともに、印刷局合気道部での活動も充実されていったわけですね。

  でもね、やっぱり順調にいかないこともあるよ。子供達もいるし、もういい加減、仕事に打ち込まなければいけないんじゃないかな、とかなり悩む時期もありました。そんな頃、吉祥丸道主が山口さんを通して、飲もうよ、ということを言ってきたんです。音羽御殿の下にね、昔の古い色町があるんだけど、そこで寺内大吉(小説家、浄土宗住職)と道主、山口さん、僕の4人で3回くらい飲んでいるかな。

 飲めば別に込み入った話をするわけじゃないけど、やっぱり道主は以心伝心、僕のそういう気持ちをわかってくれているんだな、と思いましたよ。だから、これは辞めるわけにはいかない、一蓮托生、やっぱりやらなきゃだめだと観念しました。今はもう、道主も山口さんも、二人とも亡くなってしまいましたけど。

★道主と山口先生の飲みっぷりはいかがでした?

  山口さんはお酒のほうは、僕みたいに呑んべえでガブガブ飲むわけじゃないけど、適当に飲んでいましたよ。嫌いなほうじゃないけど、あまり激しくは飲まない。だから、本当におかしいんだよね。山口さんは健康に気をつかって、玄米食かなんかやってたから、山口さんのほうが年上だけど、俺は死んでも、山口さんは長生きするなと思っていた。なのに、先に逝っちゃうんだからねぇ。

 道主は大きな手術をしてからあまり飲まなくなったけど、前田弁護士さんなんかに言わせると、昔は吉田松陰を呑んべえにしたみたいだって。貴公子然としているんだけど、酒を飲ませると、キリがない(笑)。いやあ、ほんと強かったのよ。

 もうね、酒をだーっと、本部道場の6畳の部屋の壁の片側に、天井まで棚にして並べてね。それで、僕がよく日曜なんかに遊びに行くと、「今日は西尾さん、まっすぐ帰るの?」なんて聞いてくる。その頃は、男兄弟三人とも合気道をやっているのが本部の近くに住んでいた。長兄が、先ほど話に出た北区の坂本さんなんですが、これからそこに遊びに行こうということになると、「じゃあ、これとこれを持って行こう」なんて、道主が壁の酒を選って、それを持って出かけたというような思い出がありますよ。